現場での不登校対応のあり方が変わることを、文部科学省が2018年7月に示唆しました。
今までは、学校復帰ありきの対応策のみでしたが、学校復帰にこだわらない、という文言に変わるという内容の指針を出したのです。文部科学省が!
にも関わらず、その子の状況もよく考えず「学校復帰」を強いる現場の対応は、いかがなものかと改めて思いました。
その子の気持ちが「復帰」に向かっているならいいですけどね。
そんなことがあった、どうも現場には今だに「不登校0(ゼロ)」信仰がはびこっているのを肌で感じました。
この「不登校0(ゼロ)」について、今回は考えてみたいと思います。
不登校0(ゼロ)って??
不登校0(ゼロ)言葉通り、自分の学校には不登校児童・生徒がいませんよ。という状況を表す言葉です。
ちなみに不登校の定義は…
何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由を除いたもの
だそうです。この定義にも、いろいろと突っ込みどころがある気もしますが、この30日以上というのが、現場は結構気にするところだったりします。
学校に行ったり行かなかったりする子の場合だと、いかに欠席が30日を超えないようにするか、という点に執着し、あの手この手を使って登校刺激をされることもあります。
なんで30日にこだわるかっていうと、単純に報告義務があるからです。
教育委員会や教育事務所など、その地域を管轄している行政に対し、不登校の子がいるということを学校は報告しなければいけません。
ただ、それだけです。
でも管理職によっては、それが不名誉と感じている人もいるようで、できるだけ登校させるように指示を出す場合が多いようです。
今はあまり見かけなくなりましたが、数年前までは「めざす教職員像」に堂々と「不登校0」の文字がありました。
ざっと探しましたが出てこなかったので、おそらく今はそんなことを公には打ち出していないのだと思います。
が!その感覚は刷り込みのように、今だに現場では残っているんですね。
今だに「不登校0(ゼロ)」信仰を信心深く信じている先生は多く、不登校の子やその保護者の前に、大きな壁となって現れることがあるのです。残念なことに。
誰にでも「苦手な場所」「合わない場所」がある。
私の知人に、ディ○ニーランドが嫌いという人がいます。
あの「夢の国」です。お金を積まれても行きたくないそうです。
理由は、看板キャラクターの踊るイケメンネズミが嫌いだから(笑)
そんな「夢の国」って言われている場所ですら、嫌い、行きたくないという人がいるのです。
学校が嫌い、合わない、行きたくない、という人がいても全然おかしいことじゃないですよね。
むしろ、学校嫌い、合わない、行きたくない、という子が一定数いるのは正常なことだと思うのです。
旅行先を選ぶのなら、ディ○ニーランドじゃなくて浅草行くか、とか他の選択肢がたくさん思いつくわけです。
しかし、今の日本の現状を考えると、学校に代わる選択肢が身近なところでパッと思い浮かぶでしょうか。
思い浮かばない、もしくは行くところがなく、仕方なく「学校復帰」にすがるしかない現状もあるのかもしれないな、とも思います。
フリースクールや、ホームスクーリングなどが学校と同じ立場にあれば、たとえ学校に行かなくなっても、「だったらどうしようかな。」と考えることができると思います。
しかし、現状はそうではない…。
なので、お子さんが不登校になったら、「どうしよう!なんとしてでも行かせなきゃ!」となってしまう保護者の方もいらっしゃるようです。
不登校0(ゼロ)は子ども、保護者、そして学校の先生を苦しめる。
不登校0(ゼロ)信仰は、誰も幸せにならないと思います。
不登校0が善=不登校は悪いこと
という式が成り立ってしまい、不登校ってだけで自尊心が大きく傷ついてしまう子も中にはいます。
学校へ行けなくて苦しんでいるのに、自分は悪いことをしているんだと、自分で自分を責めてしまう子もいます。
そして、保護者。
子どもが苦しんでいる。でも学校には行かせなきゃ。
子どもの苦しみと学校からの圧力との間で板挟みになり、苦しまれている保護者の方は多いです。
私が不登校のとき、母は祖母と一緒に「おはらい」にまで行っていたそうです。(笑)
今となっては笑い話なんですが、それほど「藁をもつかむ思い」だったことが伝わるエピソードです。
最後に学校の先生。
いろんな方がいらっしゃることは言うまでもないですが、まぁ基本的に上からの言うことはちゃんと聞く、真面目な方が多いと思います。
ただ、融通の効かない真面目さは、自分も子どもも苦しめます。
どういうことかと言うと、真面目さゆえに「不登校0(ゼロ)」を忠実に実現しようとしてしまうのです。
上司の言うことも忠実に守ろうとすれば、それが執拗な「登校刺激」と言う形になってしまうかもしれません。
なんとかして学校に来させなければ、というプレッシャーは、どうしたって隠すことができません。
不登校になる子の多くは、人の感情に敏感です。
勘のいい子だと、先生のとる行動が自分のためではなく、目的は別のところにあるということがわかってしまうのです。
そうなると、生まれるのは溝…ですね。
不登校の子に接するときは、「子どもだから」という甘えは通用しないと思ってください。
私が考える「不登校0(ゼロ)」
この言葉を、私がポジティブに解釈すると…
「不登校で必要以上に傷ついたり、思い悩んだりする子を0(ゼロ)にしたい」ということです!
さらに言うと、「不登校」と言う言葉がなくなればいいと思います。
不登校という言葉自体が「学校ありき」の言葉なので、学校へ行かないことも普通に受け入れられる世の中になってほしいと思います。
もちろん環境面での課題は多いです。
学校へ行かないことを選んだあとの選択肢が、少ないと思うので。
ソフト面とハード面、それぞれの課題が少しずつでも解決し、自分にあった学習の場、成長の場を選べる時代が来ることを信じて…。
今後も発信していきたいと思います!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。^ ^
◇柴ゆきのつぶやき◇
ディ○ニーランドの話を例で出すと、「いやいや小・中学校は義務教育だから。」という反論をされる方がいらっしゃいます。が、他の記事でも書いてますが、子どもにあるのは「教育を受ける権利」であって、義務ではありません。そのあたり理解していただきたいです。^ ^